1541年11月30日(天文10年11月13日)、尼子経久が出雲国の月山富田城で亡くなりました。数え84歳でした。経久は出雲守護代の家に生まれ、月山富田城を拠点に出雲国内の支配を固め、尼子氏を山陰・山陽に勢力を持つ戦国大名へ成長させた人物です。
経久は、守護京極氏のもとで守護代を務めながら、国人や寺社との関係を築きました。かつては主家を倒した典型的な下剋上の武将と語られましたが、現在は京極氏の権威を背景に勢力を伸ばした過程が重視されています。出雲を掌握した後は伯耆、石見、安芸、備後などへ影響を広げ、大内氏をはじめとする周辺勢力と争いました。
1537年、経久は家督を嫡孫の詮久、後の尼子晴久へ譲ります。晴久はさらに東へ勢力を広げましたが、1540年から翌年にかけて毛利元就の吉田郡山城を攻め、大内氏の援軍に敗れました。尼子氏が安芸での基盤を失うなか、隠居していた経久は同じ1541年に亡くなります。
経久の死によって、尼子氏の領国形成を担った世代は退きました。その後の尼子氏は晴久を中心に、安芸での敗北から立て直し、大内氏や毛利氏と向き合うことになります。経久の命日は、出雲の守護代家が広域の戦国大名へ変わった歩みと、その支配を次世代へ渡した節目を振り返る日です。