1584年11月8日(天正12年10月6日)、会津の戦国大名・蘆名盛隆が黒川城で殺害されました。数え24歳でした。盛隆は須賀川城主・二階堂盛義の子でしたが、二階堂氏が蘆名氏に従った際、人質として会津へ送られた人物です。
蘆名盛氏の嫡男・盛興が亡くなると、盛隆はその未亡人と結婚して蘆名氏の養子となり、やがて家督を継ぎました。対立していた家の人質から、会津を治める蘆名氏の当主となった異例の継承です。一方で、二階堂氏出身の新当主を迎えた家中には、複雑な利害と緊張が残りました。
会津若松市の歴史資料によれば、1584年には重臣の松本氏と栗村氏が黒川城で反乱を起こしました。盛隆はこれを鎮めましたが、同年10月6日、小姓の大庭三左衛門に殺害されます。殺害の動機には複数の説があり、家中対立や周辺勢力との関係を含め、確かな事情は分かっていません。
盛隆の死後、生まれて間もない亀王丸が家督を継ぎました。しかし亀王丸も幼くして亡くなり、蘆名氏では後継者をめぐる対立が深まります。蘆名氏は1589年に伊達政宗へ敗れて会津を失いました。盛隆の急死は、盛氏の時代に全盛を迎えた蘆名氏が、家督の不安定化へ向かう大きな節目でした。