1612年11月13日(慶長17年10月21日)、天正遣欧少年使節の正使を務めた伊東マンショは、長崎のイエズス会学院で病死しました。マンショは日向の戦国大名・伊東氏の一族に生まれましたが、島津氏の侵攻で一族が豊後へ逃れた際に両親と離れ、イエズス会司祭に引き取られて受洗しました。
有馬のセミナリヨで学んだマンショは、大友宗麟の名代として1582年に日本を出発します。使節の首席としてスペイン国王フェリペ2世やローマ教皇グレゴリウス13世らに謁見し、1590年に帰国しました。長い旅は、日本のキリシタンがヨーロッパの社会と直接向き合う大きな機会となりました。
帰国後は豊臣秀吉に謁見し、1601年からマカオで約3年間、修道士として学びを深めます。1604年に長崎へ戻った後は、九州各地で布教に携わりました。華やかな欧州訪問から二十余年を経て、マンショは学びと布教を続けた長崎で生涯を閉じます。全国的な禁教令が出されるのは、その死から約1年余り後のことでした。