1615年12月4日(元和元年10月14日)、伊達政宗の重臣・片倉景綱が亡くなりました。数え59歳でした。通称の片倉小十郎で知られ、若いころから政宗の近くに仕え、軍事や外交、領地支配を支えた人物です。
景綱は伊達輝宗に仕えた後、1575年ごろに政宗の近侍となりました。周辺の大名や国衆との交渉で政宗への取次を担い、政宗が家督を継いで南奥羽へ勢力を広げると、各地の戦いにも従います。豊臣秀吉の小田原攻めに政宗が参陣し、伊達家が奥州仕置を乗り越える過程でも政宗を補佐しました。
関ヶ原の戦い前後に伊達氏が白石城を奪還すると、1602年、政宗は景綱へ白石城と知行を与えます。白石は仙台藩の南端を守る要地で、景綱は城と城下の整備を進めました。白石城は一国一城令の後も仙台藩の支城として残り、片倉氏が明治維新まで治める拠点となります。
晩年の景綱は病のため大坂の陣に出陣できず、嫡男の重綱、後の重長を政宗のもとへ送りました。重長は大坂夏の陣で伊達勢を率い、その年のうちに景綱が亡くなると家督を継ぎます。景綱の死は、政宗の戦国期を支えた重臣から、仙台藩の支城を守る片倉家の次代へ役割が引き継がれた節目でした。