1570年8月29日(元亀元年7月28日)、武田信玄の正室・三条の方が亡くなりました。三条の方は京都の公家・三条公頼の娘で、1536年に甲斐の武田晴信へ嫁いだとされます。今川義元の仲介による婚姻で、公家社会と甲斐の戦国大名を結ぶものでした。
信玄との間には、嫡男義信、竜芳、信之、黄梅院、見性院らが生まれました。子どもたちは武田家の後継や北条氏・穴山氏との婚姻に関わり、三条の方は正室としてその中心にいました。しかし、嫡男義信は父との対立を経て1567年に死去し、三条の方は跡継ぎと期待された子を失った後に晩年を迎えます。
三条の方は信玄に先立ち、50歳で亡くなりました。墓は甲府の円光院にあり、現在は山梨県指定史跡です。後世の物語では信玄との不仲や性格が強調されることがありますが、確かな史料から私生活の感情まで断定することはできません。その死は、武田家が次の後継体制を模索する時期に訪れた重要な節目でした。