命日
新発田重家が亡くなる
1587年11月25日(新暦)
天正15年10月25日(旧暦)
1587年11月25日(天正15年10月25日)、新発田城が落城し、城主・新発田重家が亡くなりました。重家が上杉景勝へ反旗を翻してから続いた、越後国内の長い抗争が終わりを迎えた日です。
重家と兄の新発田長敦は、上杉謙信の死後に起きた御館の乱で景勝方につきました。長敦は武田勝頼との和平交渉に関わり、重家も戦場で功績を挙げます。しかし乱後の論功行賞で新発田一族に恩賞が与えられず、外様の国衆と譜代家臣の対立も重なったことから、重家は景勝と対立する道を選びました。
重家は織田信長と結び、越後へ迫る織田方と呼応して景勝を追い詰めます。ところが1582年の本能寺の変で信長が亡くなり、織田軍が撤退すると状況は一変しました。景勝はその後、豊臣秀吉に服属し、越後平定を命じられます。重家との戦いは、越後一国の内紛から秀吉の天下統一事業の一部へと性格を変えていきました。
1587年、上杉方は加地城、赤谷城、五十公野城を順に攻略し、新発田城を孤立させます。10月25日に城が落ち、重家も最期を迎えました。重家の死は、御館の乱後も分裂していた越後が景勝のもとへ統合され、豊臣政権の秩序へ組み込まれていく節目となりました。
出典
新発田市「歴史と概要 新発田重家と上杉景勝の抗争 1」、https://www.city.shibata.lg.jp/kanko/bunka/shiro/gaiyo/1005179.html (閲覧日:2026-09-30)
新発田市「歴史と概要 新発田重家と上杉景勝の抗争 2」、https://www.city.shibata.lg.jp/kanko/bunka/shiro/gaiyo/1005180.html (閲覧日:2026-09-30)
講談社『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』「新発田重家」(コトバンク)、https://kotobank.jp/word/%E6%96%B0%E7%99%BA%E7%94%B0%E9%87%8D%E5%AE%B6-1080504 (閲覧日:2026-09-30)
Wikipedia由来の人物情報ミラー「新発田重家」、https://ja.wikid.org/%E6%96%B0%E7%99%BA%E7%94%B0%E9%87%8D%E5%AE%B6 (西暦日付の確認、閲覧日:2026-09-30)