命日

島津忠治が亡くなる

1515年10月2日(新暦)

永正12年8月25日(旧暦)

1515年10月2日(永正12年8月25日)、島津氏第12代当主・島津忠治が、大隅の吉田城を攻める陣中で亡くなりました。数え27でした。忠治は1508年に父・忠昌が自害した後、若くして薩摩・大隅・日向三国の守護職と島津本家の家督を継いでいました。

当時の島津氏では分家や各地の国人が強い力を持ち、本家の命令が領内全体へ及ぶ状況ではありませんでした。忠治の治世にも反乱が相次ぎ、忠治は島津本家の支配を立て直すため各地へ出兵します。その途上で大隅吉田城の攻略にあたり、戦いの最中に病没しました。

忠治には家督を継ぐ男子がなく、弟の忠隆が後継となりました。しかし忠隆も1519年に若くして亡くなり、さらに弟の勝久が当主となります。若い当主の死が続いたことで島津本家の統率は安定せず、のちに伊作・相州家の島津忠良と貴久が勢力を伸ばす余地が広がりました。忠治の死は、島津氏再統一まで続く家督と領国支配の揺らぎを示す節目です。

出典

講談社『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』「島津忠治」(コトバンク): https://kotobank.jp/word/島津忠治-1080924 鹿児島県「『鹿児島県史料』」: https://www.pref.kagoshima.jp/ab23/reimeikan/siroyu/kensi.html 鹿児島県歴史・美術センター黎明館『鹿児島県史料』資料: https://www.pref.kagoshima.jp/ab23/reimeikan/siroyu/documents/6756_20221007184705-1.pdf Wikipedia「島津忠治」: https://ja.wikipedia.org/wiki/島津忠治