1602年11月30日(慶長7年10月17日)、立花誾千代が肥後国玉名郡腹赤村、現在の熊本県長洲町で亡くなりました。数え34歳でした。誾千代は立花道雪の一人娘で、幼くして立花城の城督と所領を継ぎ、のちに立花宗茂の正室となった女性です。
宗茂は豊臣秀吉の九州平定後、筑後柳川の大名となりました。しかし1600年の関ヶ原の戦いでは西軍に属し、敗戦後に領地を失います。宗茂と誾千代は肥後の加藤清正から庇護を受け、宗茂は高瀬に、誾千代は母や侍女たちと腹赤村に身を寄せました。
宗茂は大名への復帰を目指して上方へ向かいましたが、誾千代は肥後に残り、病のため亡くなりました。腹赤村には供養塔が残り、遺骸は後に柳川の良清寺へ改葬されたと伝わります。宗茂は徳川政権のもとで再び大名となり、1620年に旧領柳川へ復帰しました。その後、誾千代の菩提を弔う寺として良清寺が整えられています。
誾千代の死は、幼い城督として始まった生涯が、立花家の改易と離散のなかで閉じられた出来事でした。一方、誾千代の名と家督を受け継いだ立花家は、宗茂の旧領復帰によって柳川へ戻ります。命日は、戦国期の女性による家の継承と、関ヶ原後の大名家の浮沈をあわせて振り返る日です。