1555年11月23日(弘治元年閏10月10日)、今川義元を支えた禅僧・太原雪斎が亡くなりました。太原崇孚ともいい、60歳でした。僧侶でありながら、今川氏の外交、軍事、領国経営にも関わった人物です。
雪斎は幼いころに出家し、のちの義元とともに駿河や京都の寺院で修行しました。義元が今川家の家督を継ぐと、その補佐役として活動します。義元が兄・氏輝の菩提を弔うために創建した臨済寺では住持を務め、妙心寺や清見寺、善得寺にも関わりました。政治を支える一方、東海地方で臨済宗妙心寺派が広がるうえでも重要な役割を担っています。
今川氏のもとでは三河への侵攻に加わり、1549年には安祥城を攻略して、織田方の人質となっていた竹千代、後の徳川家康を駿府へ連れ帰りました。1554年には今川義元、武田晴信、北条氏康の三者を和議へ導いたとされ、対立していた三国の関係を整えました。
雪斎の死により、今川氏は義元の師であり、寺院勢力と軍事・外交の双方に通じた補佐役を失いました。ただし、その死だけを5年後の桶狭間の敗北の原因とみなすことはできません。雪斎の命日は、今川氏の最盛期を宗教と政治の両面から支えた一人の役割を振り返る日です。