1567年11月19日(永禄10年10月19日)、武田信玄の嫡男・武田義信が、甲府の東光寺で亡くなりました。義信は信玄と正室・三条の方の長男として生まれ、武田家の後継者と位置づけられていた人物です。
義信は室町幕府将軍・足利義輝から一字を受けて名乗り、今川義元の娘を正室に迎えました。この婚姻は、甲斐の武田氏と駿河の今川氏との同盟を支える関係でもありました。
1565年、義信に近い重臣・飯富虎昌らの密謀が発覚し、義信は東光寺へ幽閉されます。事件の原因や義信本人の関与は、後世の軍記による説明も多く、父の駿河侵攻に反対して信玄暗殺を企てたと単純に断定することはできません。義信の死因も、長く自害と病死の両説が語られてきましたが、近年は病死を示す史料が紹介されています。
義信の死後、正室だった今川義元の娘は駿河へ戻り、武田家では勝頼が後継者となっていきます。翌1568年には信玄が今川領への侵攻を開始しました。義信の死は、一人の嫡男の最期であると同時に、武田家の家督と外交の組み替えが表面化する節目でした。