1592年10月14日(文禄元年9月9日)、豊臣秀勝が朝鮮半島の巨済島で病没しました。24歳でした。秀勝は豊臣秀吉の姉・日秀と三好吉房の子で、秀吉の養子となった人物です。同名の養子と区別するため、「岐阜宰相」や「小吉秀勝」と呼ばれることがあります。
秀勝は丹波亀山、甲斐・信濃を経て美濃岐阜を領し、豊臣一門の大名として九州平定や小田原攻めに参加しました。浅井長政と市の娘で、秀吉の養女となっていた江を妻とし、娘の完子をもうけます。1592年に始まった文禄の役では朝鮮へ渡りましたが、陣中で病に倒れました。
秀勝には家督を継ぐ男子がなく、その家は断絶しました。江はのちに徳川秀忠と再婚し、完子は豊臣家で育てられた後、九条幸家へ嫁ぎます。秀勝の死は、秀吉が一門を各地の大名として配置する構想の一角が失われるとともに、その妻子が豊臣家、徳川家、公家社会を結ぶ別の道へ進む転機となりました。