命日

豊臣鶴松が亡くなる

1591年9月22日(新暦)

天正19年8月5日(旧暦)

豊臣鶴松の人物画像

1591年9月22日(天正19年8月5日)、豊臣秀吉と淀殿の子・鶴松が数え3歳で亡くなりました。幼名を棄、棄丸ともいい、実子の誕生を待ち望んでいた秀吉から豊臣家の後継者として期待されていました。しかし幼いころから病気がちで、この年に再び病状が悪化します。

秀吉は医師に治療させるだけでなく、各地の寺社に祈祷を命じました。それでも鶴松は回復せず、政治に関わる年齢へ達する前に生涯を閉じます。秀吉はすでに関白職を甥の秀次へ譲る準備を進めていましたが、実子による将来の家督継承という構想は、鶴松の死によっていったん失われました。

秀吉は鶴松の菩提を弔うため、京都・東山に祥雲禅寺を建立しました。客殿を飾った長谷川等伯一派の「楓図」などは、寺地を受け継いだ現在の智積院に伝わっています。鶴松自身の生涯は短いものでしたが、その死は豊臣家の後継問題を再び動かし、父の追善事業は桃山美術の名品を後世へ残すことにもなりました。

出典

東京国立博物館「没後400年 特別展『長谷川等伯』」: https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=657 京都市観光協会「京都観光Navi 智積院」: https://ja.kyoto.travel/tourism/single01.php?category_id=7&tourism_id=420 サントリー美術館「京都・智積院の名宝 展示構成」: https://www.suntory.co.jp/sma/exhibition/2022_5/display.html Wikipedia「豊臣鶴松」: https://ja.wikipedia.org/wiki/豊臣鶴松