1597年8月27日(慶長2年7月15日)、慶長の役の漆川梁海戦で、日本水軍が朝鮮水軍を破りました。休戦交渉が決裂して豊臣秀吉が再び朝鮮半島へ軍を送るなか、朝鮮水軍では李舜臣が指揮官を解任され、元均が後任となっていました。
朝鮮水軍は釜山方面へ出撃したものの、日本側の攻撃や補給不足で疲弊し、巨済島の漆川梁付近に停泊しました。そこへ藤堂高虎、脇坂安治、加藤嘉明らの水軍が夜間から攻撃を仕掛けます。朝鮮側は多数の船を失い、撤退の途中で元均らも戦死しました。参加船数や損害の具体的な数字には資料ごとの差があります。
勝利した日本側は朝鮮半島南岸の海上交通を一時的に押さえ、全羅道へ進む陸軍を支えました。しかし、朝鮮水軍は李舜臣の復帰後に残存船をまとめ、同年の鳴梁海戦で日本水軍を迎え撃ちます。漆川梁海戦は慶長の役の海上戦を大きく動かしましたが、制海権がそのまま固定されたわけではありません。短期間で再び海上の主導権が争われることになります。