1615年9月9日(元和元年7月17日)、禁中並公家諸法度が京都の二条城で制定されました。大坂夏の陣で豊臣氏が滅んでから間もない時期です。前関白の二条昭実、将軍の徳川秀忠、大御所の徳川家康が連署し、朝廷と公家社会に関する幕府の基本方針を示しました。
法度は全17条で構成されます。天皇にとって第一に重んじるべきものとして学問を掲げたほか、親王や公家、門跡の役割、官位や席次、装束などを定めました。大名を対象とした武家諸法度とは異なり、宮中と公家社会の秩序を規定した法令です。
この法度によって、幕府は朝廷の儀礼や人事に関わる基準を成文化しました。一方、条文には朝廷が担ってきた学問や儀礼を尊重する形も示されています。禁中並公家諸法度は一時的な命令ではなく、江戸時代を通じて効力を持ち、幕府と朝廷がそれぞれの役割を保ちながら併存する枠組みの基礎となりました。