武将・大名
松平忠直
まつだいらただなお
- 生年
- 1595年
- 没年
- 1650年10月5日(慶安3年9月10日)
家康の孫と越前の大領
松平忠直は、文禄4年(1595)に結城秀康の長男として生まれた大名です。祖父は徳川家康で、正室には2代将軍徳川秀忠の三女・勝姫を迎えました。慶長12年(1607)、父の死により13歳で越前北庄藩の領地約67万石を継ぎます。若い藩主のもとで重臣間の対立が起こり、家康・秀忠が裁定に関与するなど、家中統制には当初から難しさがありました。
忠直は北陸道の改修や鳥羽野の開拓を進め、新たに家を建てる者の屋敷地と諸役を免除して集落の形成を促しました。後世の物語では乱行の大名として語られがちですが、領国経営の実績も確認されており、一面的な「暴君」像だけで評価することはできません。
大坂夏の陣での大戦果
慶長19年(1614)の大坂冬の陣と翌年の夏の陣で、忠直は1万を超える兵を率いて徳川方として戦いました。夏の陣では真田信繁をはじめとする大坂方の武将を討ち取り、大坂城への一番乗りを果たしたとされます。参加大名のなかでも際立つ戦果で、戦後に参議へ任じられました。
しかし忠直は領地の加増を得られず、幕府との関係は次第に悪化します。参勤の命令に従わず国元へ戻ったことなどが問題とされ、元和9年(1623)、秀忠の命によって隠居させられました。忠直失脚の背景には素行や病気をめぐる記録がありますが、残虐行為を強調する多くの逸話には後世の脚色が含まれます。
豊後で過ごした27年
忠直は豊後国へ移され、初め萩原、のちに津守で幕府の監視を受けながら暮らしました。越前の大部分は弟の忠昌へ与えられ、忠直の子・光長は越後高田藩主となります。忠直は一伯と号し、寺社への寄進や和歌にも関わりながら約27年を豊後で過ごしました。
慶安3年(1650)、忠直は津守で56歳の生涯を終えました。徳川一門の大大名として大坂の陣最大級の武功を挙げながら、幕府の統制に従わず領国を失った生涯は、将軍権力が親族大名にも及んだことを示しています。
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