武将・大名
水野勝俊
みずのかつとし
- 生年
- 1598年8月26日(慶長3年7月25日)
- 没年
- 1655年
水野勝俊は、備後福山藩の2代藩主として、父・水野勝成が始めた領国づくりを受け継いだ大名です。慶長3年(1598)、勝成の嫡男として備中国成羽に生まれました。徳川譜代の家臣として父とともに大坂冬の陣・夏の陣へ出陣し、のちには島原・天草一揆の鎮圧にも加わるなど、武将として経験を重ねました。 元和5年(1619)、父の勝成が大和郡山から備後・備中へ移されると、勝俊も新しい領国へ入りました。福山城が完成するまでの時期から鞆の城跡にあった屋敷へ住み、瀬戸内海の交通と海防を担ったため「鞆殿」と呼ばれます。鞆は港町として栄え、福山藩にとって重要な拠点でした。 寛永16年(1639)、父の隠居により42歳で家督を継ぎ、福山藩主となりました。勝成が進めた城下町建設や産業振興を引き継ぎ、土木工事や新田開発を進めます。勝俊の時代には福山東部の市村沼田、深津沼田、引野沼田などで干拓が始まり、農地の拡大と領国経営の安定が図られました。 藩主となって間もない寛永18年(1641)には西日本一帯が大旱魃に見舞われ、福山藩も厳しい状況に置かれました。こうした災害への対応を迫られながら、父が築いた藩の仕組みを次代へつないでいきます。また日蓮宗を厚く信仰し、妙政寺の大檀越となりました。 承応4年(1655)、勝俊は江戸藩邸で58歳の生涯を閉じました。遺骨は福山の妙政寺に葬られ、高さ約5メートルの巨大な五輪塔と、後を追って殉死した7人の家臣の墓が残ります。勝俊は父の陰に隠れがちですが、福山藩の草創期を安定させ、城下と農村の発展を継承した2代藩主でした。
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