武将・大名
南部利直
なんぶとしなお
- 生年
- 1576年
- 没年
- 1632年10月1日(寛永9年8月18日)
豊臣政権下で育った南部氏の後継者
南部利直は、天正4年(1576)、南部信直の長男として生まれた大名です。父とともに豊臣秀吉の小田原攻めへ参陣し、秀吉から南部領を認められました。九戸政実の乱後、奥州仕置によって領内の城や支配関係が再編されるなか、利直は近世大名へ移行する南部家の後継者として領国経営に携わります。
慶長4年(1599)に信直が亡くなると家督を継ぎました。翌年の関ヶ原の戦いでは東軍に属し、徳川家康の命で出羽方面へ出陣します。この間、領内では旧領回復を目指す和賀忠親らによる一揆が起こり、利直は鎮圧を通じて支配を固めました。戦後は徳川政権から所領を認められ、盛岡藩主として広い領国を統治します。
盛岡城と城下町の建設
父信直は三戸に代わる本拠として不来方の地を選び、慶長2年(1597)に利直を総奉行として築城を始めたと伝わります。利直の代には盛岡城と城下町の建設が大きく進み、武家地、町人地、寺社地が整えられました。「盛岡」の地名も慶長11年(1606)の利直の文書で確認され、このころ定着したと考えられています。
築城は北上川や中津川の洪水に悩まされる長期事業でした。利直は川と街道を生かして町割りを進め、三戸から政治・経済の中心を移します。慶長14年(1609)には中津川に上の橋が架けられ、その擬宝珠が城下町形成の記憶を現在へ伝えています。城そのものの完成は利直の死後でしたが、現在の盛岡中心市街地の骨格はこの時代に形づくられました。
広い領国と三陸沿岸の統治
利直は検地や家臣団の再編を進め、金山など領内資源の開発にも取り組みました。内陸から三陸沿岸まで広がる領国では交通と行政の条件が大きく異なり、慶長16年(1611)には宮古へ郡代を派遣して役所を置くなど、沿岸支配の拠点も整えています。
寛永9年(1632)、利直は江戸の桜田邸で亡くなりました。家督を継いだ重直の代に盛岡城はおおよその完成を迎えます。利直は初代・2代の数え方が資料によって異なることがありますが、父が始めた築城を引き継ぎ、城下町と領国統治を具体化した近世盛岡藩の基礎づくりの中心人物です。
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