武将・大名
二階堂盛義
にかいどうもりよし
- 没年
- 1581年9月23日(天正9年8月26日)
須賀川を本拠とした戦国大名
二階堂盛義は、陸奥国岩瀬郡の須賀川城を本拠とした戦国大名です。二階堂氏は鎌倉幕府の政所執事を務めた一族の系譜を引くとされ、中世を通じて須賀川周辺へ勢力を広げました。盛義の時代、南奥羽では伊達氏、蘆名氏、田村氏、佐竹氏などが競合しており、二階堂氏は大勢力の間で領国を維持する必要がありました。
盛義の妻は伊達晴宗の娘・阿南姫です。この婚姻によって伊達氏と結びつきましたが、周辺勢力との関係は婚姻だけで固定されたものではありません。盛義は田村氏と争う一方、会津の蘆名氏からも圧力を受け、戦況に応じて抗戦と和睦を重ねました。
蘆名氏との和睦と盛隆
永禄9年(1566)、盛義は対立していた蘆名盛氏と和睦し、6歳の嫡男・盛隆を人質として会津へ送りました。盛隆はのちに蘆名盛興の未亡人を妻とし、蘆名氏の養嗣子となります。盛興の死後には蘆名家を継いだため、盛義の子が会津の有力大名の当主となる一方、須賀川の二階堂氏は蘆名氏と密接な関係に置かれました。
盛義はその後も岩瀬郡の支配を守り、天正8年(1580)には侵攻した田村方の軍勢を迎え撃ったと伝わります。蘆名氏への従属だけで生涯を説明するのではなく、その力を利用しながら二階堂氏の領国を立て直そうとした側面も見る必要があります。
阿南姫へ引き継がれた須賀川
盛義の没年は天正9年(1581)とされますが、没月日には複数の説があり、確定には注意が必要です。盛義の死後、須賀川では阿南姫が家を支えました。阿南姫は伊達政宗の叔母にあたりますが、政宗が二階堂氏の宿敵である田村氏を助け、盛隆の継いだ蘆名氏を滅ぼしたことから、降伏勧告を退けて須賀川城で抗戦しました。
二階堂盛義の歩みは、一つの大名へ一貫して従ったものではありません。婚姻、人質、養子、合戦を組み合わせ、伊達・蘆名・田村などの勢力に囲まれた須賀川を存続させようとした南奥羽の領主の選択を示しています。
この人物に関する歴史
全1件
二階堂盛義が亡くなる
1581年9月23日は、須賀川城主・二階堂盛義の命日とする説がある日です。ただし、盛義の没年月日には異説があり、天正9年8月26日とする説のほか、同年7月23日とする人名辞典もあります。史料や系譜の記載が一致しないため、特定の日付だけを確定…