1558年10月27日(永禄元年9月16日)、本願寺第11世・顕如の長男として教如が生まれました。戦国期に大きな勢力を持った本願寺の後継者として生まれたことが、その後の抗戦と本願寺の東西分立に深く結びついていきます。
教如が成長した石山本願寺は、織田信長との間で長い戦いを続けていました。1580年、顕如は勅命による講和を受け入れて石山を退きましたが、教如は残って抗戦を続けたため、父から義絶されます。義絶は1582年に解かれ、本願寺の再興後は父と行動をともにしました。
1592年に顕如が亡くなると、教如はいったん本願寺を継ぎました。しかし翌年、豊臣秀吉から退隠を命じられ、弟の准如が継職します。教如はその後も各地の門徒とのつながりを保ち、1602年には徳川家康から京都烏丸六条・七条間の寺地を与えられました。翌年に親鸞の御真影を迎え、1604年には御影堂を建立します。
真宗大谷派は教如を「東本願寺創立の上人」と位置づけています。顕如の長男として生まれた教如の生涯は、信長・秀吉・家康の時代をまたぎ、本願寺教団が東西に分かれていく過程そのものと重なっています。