1631年9月6日(寛永8年8月10日)、姫路藩主の本多忠政が亡くなりました。忠政は徳川四天王の一人・本多忠勝の嫡男で、関ヶ原の戦いや大坂の陣に出陣し、父の死後に伊勢桑名藩を継ぎました。1617年には播磨姫路15万石へ移されています。
姫路は西国支配の要地でした。忠政は池田氏が築いた姫路城に西の丸や三の丸の御殿を整え、城下の水運にも手を加えました。嫡男・忠刻が徳川秀忠の娘で豊臣秀頼の正室だった千姫と結婚したため、西の丸には二人のための御殿も設けられます。また、忠政は荒廃していた書写山圓教寺の再興を支援しました。
ところが忠刻は1626年、父に先立って亡くなりました。忠政の死後は次男の政朝が家督と姫路藩を継ぎ、本多家の統治を続けます。忠政の廟屋は父・忠勝らの廟屋とともに圓教寺に残されています。その死は、忠勝から続く本多宗家が、嫡男を経ず次男へ継承される転機でした。