武将・大名
本多忠政
ほんだただまさ
- 生年
- 1575年
- 没年
- 1631年9月6日(寛永8年8月10日)
本多忠政は、徳川四天王の一人・本多忠勝の嫡男として生まれ、桑名藩主、のちに姫路藩主となった武将です。天正3年(1575)に生まれ、父とともに徳川家康へ仕えました。関ヶ原の戦いなどを経て徳川政権の成立を支え、慶長15年(1610)に忠勝が亡くなると、伊勢桑名藩を継ぎます。 桑名は東海道と水運が交わる交通の要衝であり、大坂の豊臣氏に備える軍事拠点でもありました。忠政は家康と2代将軍・秀忠に仕え、慶長19年(1614)の大坂冬の陣と翌年の夏の陣に出陣します。冬の陣後には大坂城の堀を埋める普請奉行を務め、豊臣方の防御力を弱める重要な工事を担当しました。嫡男の忠刻も夏の陣で戦功を挙げています。 大坂の陣後、忠刻は豊臣秀頼の正室だった千姫と結婚しました。徳川将軍家との結びつきを強めた本多家は、元和3年(1617)、桑名から播磨姫路15万石へ移され、忠政が姫路城主となります。姫路は西国の外様大名を監視する重要拠点で、忠政は池田氏が築いた城に三の丸や西の丸などを増築し、城下の水運も整えました。西の丸には忠刻と千姫のための御殿が置かれ、現在の化粧櫓や百間廊下は千姫ゆかりの場所として知られています。 忠政は嫡男の忠刻に先立たれた後も姫路を治め、寛永8年(1631)に亡くなりました。跡は次男の政朝が継ぎます。父・忠勝ほど合戦の逸話が多い人物ではありませんが、徳川政権の軍事行動を支え、桑名と姫路という要地を治めた譜代大名として、幕府初期の西国支配に大きな役割を果たしました。
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