1631年10月7日(寛永8年9月12日)、会津藩主・加藤嘉明が江戸の桜田にあった藩邸で亡くなりました。数え69でした。豊臣秀吉に仕えて賤ヶ岳の七本槍に数えられた嘉明は、関ヶ原の戦い後に伊予20万石を与えられ、松山城と城下町の建設を進めました。
1627年、会津を治めていた蒲生家の事情を受け、嘉明は伊予松山から会津40万石へ加増転封されました。高齢で新たな領国へ入った嘉明は、若松城の改修と領内支配の整備に着手します。しかし会津に移ってから4年ほどで江戸において没し、事業の多くは次代へ引き継がれることになりました。
家督と会津40万石は嫡男の明成が継ぎました。明成の時代には城郭の改修が続く一方、重臣との対立が深刻化し、1643年に加藤家は会津領を幕府へ返上します。嘉明の死は、秀吉子飼いの武将が築いた大名家が、会津で新たな支配を固める途中に代替わりを迎えた節目でした。