武将・大名
加藤嘉明
かとうよしあき
- 生年
- 1563年
- 没年
- 1631年10月7日(寛永8年9月12日)
秀吉に仕えた若武者
加藤嘉明は、豊臣秀吉に仕えて成長し、徳川政権下では会津を治めた大名です。永禄6年(1563)に生まれ、若くして秀吉の家臣となりました。天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いでは、柴田勝家方との戦闘で功を立て、同世代の武将たちとともに「賤ヶ岳の七本槍」の一人に数えられます。
七本槍という呼び名は後世に武勇伝として広まりましたが、嘉明の経歴を特徴づけるのは一度の槍働きだけではありません。淡路国を与えられると水軍を率い、四国攻め、九州攻め、小田原攻めに参加しました。海上輸送と沿岸の戦いを担える大名として、秀吉の全国統一を支えます。
朝鮮出兵を戦った水軍大名
文禄・慶長の役では、嘉明は船手を率いて朝鮮へ渡りました。兵員や兵糧の輸送、沿岸での戦闘を担い、長期間にわたって海を越える軍事行動に従事します。この戦争は朝鮮の人々に甚大な被害を与え、日本側の諸大名と領民にも大きな負担を課しました。
秀吉政権のもとで嘉明は伊予国松前を中心に所領を与えられ、有力大名へ成長します。同じ「加藤」姓で七本槍に数えられた加藤清正とは別の家の人物です。清正が築城や虎退治の逸話で広く知られる一方、嘉明は水軍指揮と、のちの松山・会津での領国経営に足跡を残しました。
関ヶ原と松山城の築城
秀吉の死後、嘉明は徳川家康に接近しました。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは東軍に属して戦い、勝利後、伊予で二十万石を与えられます。嘉明は道後平野の勝山に新しい城を築き始め、城下を松山と名づけました。これが現在の松山城と松山市街の出発点です。
築城は山頂の本丸、山麓の二之丸・三之丸を組み合わせる大規模な事業でした。家臣の屋敷、町人地、寺社を配置し、港とも結びつけて城下町を整えます。嘉明が会津へ移るまでに城は完成せず、後の城主が工事を引き継ぎましたが、縄張りと城下の基礎は嘉明の時代につくられました。
会津四十万石への転封
寛永4年(1627)、嘉明は伊予松山から会津四十万石余へ加増転封されました。豊臣秀吉の一若手家臣から出発し、徳川幕府の東北支配を支える大大名にまで昇ったことになります。前領主の蒲生氏に代わって広い領国を引き継ぎ、家臣団の配置や支配体制の整備を進めました。
嘉明は寛永8年(1631)に江戸で亡くなりました。会津は子の明成が継ぎましたが、家臣・堀主水との対立に端を発する会津騒動の後、加藤家は領地を返上します。嘉明の家そのものは大名として長く続きませんでしたが、松山城と城下町には現在までその事業が残りました。武功だけでなく、水軍の運用、築城、都市建設、転封先の統治を通じて、戦国武将から近世大名へ変化した人物です。
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