1602年12月1日(慶長7年10月18日)、備前・美作を治めた岡山城主・小早川秀秋が亡くなりました。数え21歳でした。関ヶ原の戦いから約2年後の死で、後継者がいなかったため小早川本宗家は断絶します。
秀秋は豊臣秀吉の正室・高台院の甥として生まれ、幼くして秀吉の養子となりました。のちに毛利一門の小早川隆景の養子となり、筑前名島を治めます。豊臣政権のもとで高い官位と大きな領地を与えられましたが、その立場は秀吉の後継問題や小早川家の継承に左右される不安定なものでした。
1600年の関ヶ原の戦いでは当初西軍側に布陣しながら、戦場で東軍へ転じ、大谷吉継らの部隊を攻撃しました。これを契機に西軍は崩れ、戦後、秀秋は徳川家康から備前・美作約50万石を与えられて岡山城へ入ります。岡山では城郭の拡張や外堀の整備を進めましたが、その治世は2年に満たない短いものでした。
秀秋の死因にはさまざまな説があり、確定していません。大谷吉継の祟りで狂死したという有名な物語も、後世に形づくられたものです。確かなのは、若い当主の急死によって後継者のいない小早川家が断絶し、備前・美作が幕府に収公されたことです。秀秋の命日は、関ヶ原の勝敗を動かした一人の大名が、戦後秩序のなかで家を残せなかった結末を示しています。