武将・大名
小早川秀秋
こばやかわひであき
- 生年
- 1582年
- 没年
- 1602年
秀吉と小早川家の養子
小早川秀秋は、天正10年(1582)に木下家定の子として生まれた武将です。豊臣秀吉の正室・高台院の甥にあたり、幼くして秀吉の養子となりました。その後、毛利氏の一族である小早川隆景の養子となり、小早川家を継ぎます。
豊臣政権下では大きな領地を与えられ、朝鮮出兵にも参加しました。しかし帰国後には領地替えや復領を経験し、政権内での立場は安定していたとはいえません。秀吉の死後、徳川家康と石田三成らの対立が深まるなかで、秀秋の選択は戦局を左右するものとなりました。
関ヶ原での離反
慶長5年(1600)の関ヶ原本戦で、秀秋は西軍側として松尾山に布陣しましたが、戦闘の途中で東軍へ転じ、大谷吉継の部隊を攻撃しました。この動きを契機として西軍は崩れ、徳川方が勝利します。家康が発砲して離反を促したという「問鉄砲」の逸話は後世の編纂物に見えるため、事実として断定できません。
戦後、秀秋は宇喜多秀家の旧領のうち備前・美作を与えられ、岡山城主となりました。城郭や城下の整備に取り組みましたが、慶長7年(1602)に若くして亡くなります。関ヶ原での行動だけで評価されがちな人物ですが、豊臣家の縁者、小早川家の継承者、岡山城主という複数の立場を持った大名でした。
別名
- 旧名 羽柴秀俊
この人物に関する歴史
全2件
関ヶ原の戦いが起きる
1600年10月21日(慶長5年9月15日)、美濃国関ヶ原で関ヶ原の戦いが起きました。豊臣秀吉が1598年に亡くなると、幼い秀頼を支える五大老・五奉行の均衡は次第に崩れます。徳川家康が政権内で主導権を強める一方、石田三成らは毛利輝元を総大将…
小早川秀秋が亡くなる
1602年12月1日(慶長7年10月18日)、備前・美作を治めた岡山城主・小早川秀秋が亡くなりました。数え21歳でした。関ヶ原の戦いから約2年後の死で、後継者がいなかったため小早川本宗家は断絶します。 秀秋は豊臣秀吉の正室・高台院の甥として…