1600年10月21日(慶長5年9月15日)、美濃国関ヶ原で関ヶ原の戦いが起きました。豊臣秀吉が1598年に亡くなると、幼い秀頼を支える五大老・五奉行の均衡は次第に崩れます。徳川家康が政権内で主導権を強める一方、石田三成らは毛利輝元を総大将に掲げて挙兵し、全国の大名が二つの陣営に分かれました。
国立公文書館は、関ヶ原で対峙した軍勢を家康方約7万人、三成方約8万人と説明しています。戦いは一進一退となりましたが、西軍側に布陣していた小早川秀秋が東軍へ転じ、大谷吉継の部隊を攻撃しました。これを契機に西軍は崩れ、戦闘は半日ほどで家康方の勝利に終わりました。
西軍が敗れるなか、石田三成や宇喜多秀家らは戦場を離脱しました。島津義弘隊は東軍の中を突破して退却し、大谷吉継ら多くの武将が戦死しました。関ヶ原だけでなく、同じ時期には伏見、大津、豊後など各地でも両陣営の戦いが続いていました。
勝利した家康は戦後処理を主導し、諸大名の領地を大きく組み替えます。1603年には征夷大将軍となって江戸幕府を開きました。関ヶ原の戦いは、豊臣政権下の対立が徳川氏を中心とする新しい政治秩序へ移る大きな転機となった戦いです。