武将・大名
宇喜多秀家
うきたひでいえ
秀吉の後援で成長した宇喜多氏当主
宇喜多秀家は、備前国岡山を本拠とした戦国大名です。元亀3年(1572)、宇喜多直家の子として生まれました。父が没したときはまだ幼く、羽柴秀吉の後援を受けて家督を継ぎます。秀家は秀吉の養女となった前田利家の娘・豪姫を正室に迎え、豊臣家の一門に近い大名として成長しました。
秀家は四国攻め、九州攻め、小田原攻めなど、秀吉の統一戦争に参加しました。若年ながら大きな軍役を担い、備前・美作を中心とする有力大名となります。直家の時代に拠点となった岡山城を近世城郭へ造り替え、城下町を整えたことも秀家の重要な事業です。現在の岡山の都市形成は、宇喜多氏の城と城下の建設を一つの出発点としています。
朝鮮出兵と豊臣政権の中枢
文禄元年(1592)に始まった朝鮮出兵では、秀家は大軍を率いて海を渡り、文禄の役で総大将格を務めました。慶長の役でも主将の一人として出陣し、南原城の戦いなどに参加します。海を越えた長期の戦争は多くの朝鮮の人々と動員された将兵に被害をもたらし、宇喜多領にも重い負担を課しました。
秀吉晩年、秀家は五大老の一人に数えられました。二十代で豊臣政権を支える最高位の大名となった一方、領国内では重臣間の対立や政治運営への不満が深まります。慶長4年(1599)から翌年にかけて起きた宇喜多騒動では、多くの重臣が宇喜多家を離れました。騒動の原因は一人の悪政だけでは説明できず、家臣団の構成、検地や領国支配、宗教をめぐる対立などが重なったと考えられています。
関ヶ原で西軍の主力となる
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、秀家は石田三成らとともに西軍の中心となりました。宇喜多勢は西軍最大級の兵力を率いて戦いましたが、小早川秀秋らの寝返りもあって敗北します。秀家は戦場を脱出し、各地を経て薩摩の島津氏のもとに潜伏しました。
数年後に身柄が明らかになると、死罪も予想されましたが、島津氏や妻の実家である前田氏らの働きかけにより助命されました。所領をすべて失った秀家は、慶長11年(1606)に八丈島へ流されます。戦国大名が八丈島へ流罪となった最初の例とされています。
八丈島で過ごした半世紀
秀家は八丈島で「浮田」とも名乗り、流人として約半世紀を生きました。前田家から米や衣類などの援助を受けながら、息子たちや家臣と島で暮らします。将軍が徳川家光、家綱へ代替わりし、豊臣家が滅んだ後も生き続け、明暦元年(1655)に84歳で亡くなりました。
豊臣政権の中枢にいた大名から、遠島の流人へ。秀家の長い生涯は、天下統一、海外出兵、関ヶ原、徳川政権の成立という大きな変化を一人の人物の歩みとして映しています。同時に、岡山城と城下町の建設を通じ、現在の岡山へ続く都市の基礎を残した人物でもあります。
この人物に関する歴史
全3件
南原城の戦いが始まる
1597年9月23日、慶長の役における南原城の戦いが始まりました。豊臣秀吉は明との和平交渉が決裂すると朝鮮への再出兵を命じ、日本軍は全羅道への進出を目標に左右二軍へ分かれて北上します。宇喜多秀家を主将とする左軍は、全羅道内陸部の要地・南原へ…
南原城が陥落する
1597年9月26日、数日間にわたって包囲されていた南原城が日本軍の総攻撃によって陥落しました。宇喜多秀家を主将とする日本の左軍は、城の周囲に設けられた堀や防備を埋めながら接近し、夜間から城壁へ攻撃を集中させました。 城内では楊元率いる明軍…
関ヶ原の戦いが起きる
1600年10月21日(慶長5年9月15日)、美濃国関ヶ原で関ヶ原の戦いが起きました。豊臣秀吉が1598年に亡くなると、幼い秀頼を支える五大老・五奉行の均衡は次第に崩れます。徳川家康が政権内で主導権を強める一方、石田三成らは毛利輝元を総大将…
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備前の大名・宇喜多直家の嫡男として生まれた秀家は、父の死により11歳で家督を相続する。羽柴秀吉にかわいがられ、秀吉の養女(前田利家の娘)・豪姫を妻に迎えた。四国や九州、小田原征討に参戦して秀吉の天下統一を支えた秀家は、文禄の役では日本軍の総大将を務め、慶長の役にも参戦。その後、豊臣政権の最高機関である五大老に若くして就任 し、徳川家康や前田利家らとともに、秀吉亡き後の政権を運営した。順風満帆に見える秀家の運命だったが、関ヶ原の合戦で一変する――。 時代に翻弄されながらも生き抜いた、戦国の貴公子・宇喜多秀家の生涯を描く。