武将・大名
島津義弘
しまづよしひろ
- 生年
- 1535年
- 没年
- 1619年8月30日(元和5年7月21日)
兄義久を軍事面で支える
島津義弘は、天文4年(1535)に島津貴久の次男として生まれた武将です。兄の義久を当主として、弟の歳久・家久とともに島津氏の勢力拡大を支えました。島津氏は薩摩・大隅・日向の三州統一を進め、さらに九州各地へ軍を進めます。義弘はその過程で前線の指揮を担い、島津家中でも特に豊富な戦歴を持つ人物となりました。
元亀3年(1572)の木崎原の戦いでは伊東氏の軍を破り、天正6年(1578)の耳川の戦い、天正12年(1584)の沖田畷の戦いでも島津方は勝利します。ただし、これらの勝利を義弘一人の采配だけに帰すことはできず、義久を中心とする一門と家臣団の総力によるものでした。
豊臣政権と朝鮮出兵
天正15年(1587)、豊臣秀吉の九州平定によって島津氏は降伏し、義弘も豊臣政権の大名として軍役を負いました。文禄・慶長の役では朝鮮へ渡り、慶長3年(1598)の泗川の戦いなどを戦います。朝鮮出兵は現地に甚大な被害を与え、島津領の人々にも重い負担を課した対外戦争でした。
帰国の際には朝鮮の陶工たちが薩摩へ渡り、その技術が薩摩焼の発展につながりました。移住には本人たちの意思だけで説明できない戦争の強制性があり、文化交流の成果と侵略による移動の両面を見る必要があります。義弘は加治木で産業振興にも関わり、軍事だけでなく領主としての活動も残しました。
関ヶ原の退却と島津家存続
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で、義弘は西軍側に加わりました。西軍が崩れると、島津勢は徳川家康本陣の前方を突破し、伊勢方面へ退却します。「島津の退き口」と呼ばれるこの行動で義弘は帰還しましたが、多くの家臣が追撃を防ぐために犠牲となりました。
戦後は義弘の子・家久らが徳川方と交渉し、慶長7年(1602)に島津氏は薩摩・大隅と日向諸県郡の領有を認められました。義弘は晩年を加治木で過ごし、元和5年(1619)に亡くなります。鹿児島で続く妙円寺詣りは、関ヶ原から帰還した義弘と家臣をしのぶ行事であり、戦功だけでなく大きな犠牲を伴った退却の記憶を伝えています。
この人物に関する歴史
全3件
泗川の戦いで島津軍が明・朝鮮連合軍を退ける
1598年10月30日(慶長3年10月1日)、朝鮮半島南部の泗川で、島津義弘・忠恒らの軍勢が明・朝鮮連合軍の攻撃を退けました。豊臣秀吉による二度目の朝鮮出兵、慶長の役が終盤を迎えた時期の戦いです。 日本軍は朝鮮半島南岸に築いた倭城を拠点とし…
関ヶ原の戦いが起きる
1600年10月21日(慶長5年9月15日)、美濃国関ヶ原で関ヶ原の戦いが起きました。豊臣秀吉が1598年に亡くなると、幼い秀頼を支える五大老・五奉行の均衡は次第に崩れます。徳川家康が政権内で主導権を強める一方、石田三成らは毛利輝元を総大将…
島津義弘が亡くなる
1619年8月30日(元和5年7月21日)、島津義弘は大隅国加治木で亡くなりました。義弘は島津貴久の次男で、兄・義久を軍事面で支え、島津氏の三州統一と九州進出、豊臣政権下の朝鮮出兵、関ヶ原の戦いを経験しました。 関ヶ原では西軍に属し、敗戦後…
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