武将・大名
石田三成
いしだみつなり
- 生年
- 1560年
- 没年
- 1600年
豊臣政権を実務で支える
石田三成は、永禄3年(1560)に近江国坂田郡石田村、現在の滋賀県長浜市石田町で生まれた武将です。若くして羽柴秀吉に仕え、主に行政や兵站、検地などの実務で力を発揮しました。秀吉の天下統一が進むと奉行として政権運営に携わり、佐和山城主となります。
三成は軍勢や物資を組織し、統一政権の支配を各地へ行き渡らせる役割を担いました。一方で、豊臣政権内部では武断派と呼ばれる武将たちとの対立も深まります。秀吉の死後、徳川家康が政権内で主導権を強めると、三成は家康に対抗する勢力の中心となりました。
関ヶ原の西軍
慶長5年(1600)、三成は毛利輝元を総大将に掲げ、西軍の形成に関わります。関ヶ原本戦では笹尾山に陣を置き、島左近らがその前面で東軍を迎え撃ちました。戦いは一進一退となりましたが、小早川秀秋らが東軍へ転じたことを契機に西軍は崩れます。
敗走した三成は近江で捕らえられ、京都で生涯を終えました。行政官としての働きと関ヶ原敗戦後に形成された人物像には評価の幅があります。三成の生涯は、豊臣政権を支えた実務能力と、秀吉死後の政治秩序をめぐる対立の両面から見る必要があります。
別名
- 幼名 佐吉
この人物に関する歴史
全3件
杭瀬川の戦いが起きる
1600年10月20日(慶長5年9月14日)、美濃国大垣城の近くを流れる杭瀬川で、関ヶ原本戦の前哨戦となる杭瀬川の戦いが起きました。徳川家康が大垣城の北西にある赤坂へ着陣したため、大垣城にいた西軍では動揺が広がっていました。 西軍の島左近と…
関ヶ原の戦いが起きる
1600年10月21日(慶長5年9月15日)、美濃国関ヶ原で関ヶ原の戦いが起きました。豊臣秀吉が1598年に亡くなると、幼い秀頼を支える五大老・五奉行の均衡は次第に崩れます。徳川家康が政権内で主導権を強める一方、石田三成らは毛利輝元を総大将…
石田三成・小西行長・安国寺恵瓊が処刑される
1600年11月6日(慶長5年10月1日)、関ヶ原の戦いで西軍に属した石田三成、小西行長、安国寺恵瓊が京都で処刑されました。関ヶ原本戦から16日後のことです。3人は敗戦後にそれぞれ捕らえられ、京都へ送られました。 三成は豊臣政権の奉行として…