1600年11月6日(慶長5年10月1日)、関ヶ原の戦いで西軍に属した石田三成、小西行長、安国寺恵瓊が京都で処刑されました。関ヶ原本戦から16日後のことです。3人は敗戦後にそれぞれ捕らえられ、京都へ送られました。
三成は豊臣政権の奉行として徳川家康に対抗する勢力の形成に関わり、関ヶ原では笹尾山に陣を置きました。宇土城主の行長は西軍の主力として北天満山で戦い、毛利氏の外交僧だった恵瓊は、毛利輝元を西軍の総大将に迎える動きに関わりました。立場は異なりますが、いずれも西軍の政治と軍事を支えた人物です。
西軍が崩れると、三成は伊吹山方面へ逃れた後、近江で捕らえられました。行長も戦場を離れた後に身柄を確保され、恵瓊も京都で捕縛されます。3人は京都の六条河原で処刑されたと伝わります。なお、三成の最期の場所を三条河原とする資料もあり、地名の記載には違いが残ります。
家康は関ヶ原の勝利後、西軍諸将の処分と大名領の再編を進めました。三成、行長、恵瓊の処刑は、豊臣政権内部の対立が軍事的な敗北だけでなく、指導者の排除と全国規模の領地替えへ進んだことを示す出来事です。