命日
九鬼嘉隆が亡くなる
1600年11月17日(新暦)
慶長5年10月12日(旧暦)
1600年11月17日(慶長5年10月12日)、志摩の水軍を率いた九鬼嘉隆が、鳥羽沖の答志島で自害したと伝わります。嘉隆は織田信長と豊臣秀吉に仕え、海上戦や水上輸送を担った武将です。
嘉隆は志摩の諸勢力をまとめ、信長の石山本願寺攻めでは大船を率いて毛利方の水軍と戦いました。本能寺の変後は秀吉に仕え、九州平定や小田原攻め、朝鮮出兵にも加わります。1597年には家督を子の九鬼守隆へ譲っていました。
関ヶ原の戦いが起きると、嘉隆は西軍に、守隆は東軍に属しました。西軍敗北後、嘉隆は鳥羽城を離れて答志島へ退きます。三重県の文化財解説によれば、守隆は徳川家康に父の助命を願い出て許しを得ましたが、その知らせを持つ使者が到着する前に、嘉隆は命を絶ったと伝えられています。
答志島には嘉隆の胴塚とされる五輪塔と、近くの山頂に首塚が残ります。胴塚の銘文は子の守隆が建立し、のちに孫の隆季が刻み直したことを伝えています。嘉隆の死後も九鬼家は守隆が継ぎ、父子が敵味方に分かれた関ヶ原の記憶を残しました。
出典
三重県「九鬼嘉隆墓」、https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/Miebunka/detail?cls=cult_col01&pkey=0000000090 (閲覧日:2026-09-30)
鳥羽市「県指定文化財 九鬼嘉隆墓(胴塚)」、https://www.city.toba.mie.jp/soshiki/k_shakaikyoiku/gyomu/rekishi_bunkazai/bunkazai/1/2203.html (閲覧日:2026-09-30)
九鬼プロジェクト「九鬼嘉隆について」、https://toba.gr.jp/kuki-project/about/ (閲覧日:2026-09-30)
Wikipedia contributors「九鬼嘉隆」、https://ja.wikipedia.org/wiki/九鬼嘉隆 (西暦日付の確認、閲覧日:2026-09-30)
戦国探訪録「関ヶ原の戦いが起きる」、https://sengoku-tanbou.jp/history/events/ (既存記事との書き分け確認、閲覧日:2026-09-30)