1638年8月28日(寛永15年7月19日)、島原藩主だった松倉勝家が江戸で処刑されました。勝家は1631年に父・重政の跡を継ぎましたが、領民に重い負担を課し、キリシタンへの弾圧も強めました。こうした藩政への不満は、飢饉などの苦境と重なり、1637年の島原・天草一揆へつながります。
一揆は島原藩だけでは抑えられず、幕府は西国諸大名を動員しました。原城に籠もった一揆勢が翌年に鎮圧されると、幕府は乱を起こした領民だけでなく、領国を統治できなかった藩主の責任も追及します。勝家は所領を没収され、江戸へ送られました。
勝家に下されたのは切腹ではなく斬首でした。武士、とりわけ大名への処分としては異例であり、幕府が一揆を招いた藩政を重く見たことが表れています。勝家の最期は、領民への苛酷な支配が大規模な反乱を招いた結果であると同時に、幕府が大名に領国統治の責任を負わせた出来事でもありました。島原藩には新たな領主が置かれ、乱後の再建が始まります。