武将・大名

松倉勝家

まつくらかついえ

生年
1597年
没年
1638年8月28日(寛永15年7月19日)

島原藩を継いだ2代藩主

松倉勝家は、江戸時代初期の島原藩2代藩主で、島原・天草一揆を招いた苛政の責任を問われた大名です。慶長2年(1597)に松倉重政の子として生まれ、長門守を名乗りました。寛永8年(1631)、父が小浜温泉で急死したため家督を継ぎます。

父の重政は、島原城の築城や城下町の建設、幕府への奉公などに多額の費用を投じ、領民へ重い負担を課していました。また、幕府の禁教政策に従ってキリシタン弾圧を強めます。勝家はこうした政策を改めず、厳しい年貢の取り立てとキリシタン弾圧を続けました。凶作が重なるなかで、領民の生活は追い詰められていきます。

島原・天草一揆

寛永14年(1637)、島原半島と天草で農民やキリシタンらが蜂起し、島原・天草一揆が始まりました。発生時、勝家は参勤交代で江戸におり、国元の家老たちは一揆勢を抑えられませんでした。一揆勢は島原城下へ進出した後、廃城となっていた原城に籠城します。幕府は九州諸藩の大軍を動員し、翌年にようやく鎮圧しましたが、幕府側にも多数の犠牲者が出ました。

斬首となった大名

乱の鎮圧後、幕府は勝家の統治と対応を厳しく追及しました。島原藩は没収され、勝家は寛永15年(1638)に斬首されます。大名は罪を問われても切腹となることが多いなか、斬首という処分は極めて重いものでした。勝家の治政は、過酷な年貢と宗教弾圧が大規模な反乱へ結びついた事例であり、その処分は幕府が領民統治を大名の責任として問う姿勢を示したものでもあります。

この人物に関する歴史

全1件

命日

松倉勝家が処刑される

1638年8月28日(寛永15年7月19日)、島原藩主だった松倉勝家が江戸で処刑されました。勝家は1631年に父・重政の跡を継ぎましたが、領民に重い負担を課し、キリシタンへの弾圧も強めました。こうした藩政への不満は、飢饉などの苦境と重なり、…

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