1612年9月9日(慶長17年8月14日)、豊後岡の領主・中川秀成が43歳で亡くなりました。秀成は父・清秀と兄・秀政の死後に中川家を継ぎ、1594年に播磨三木から豊後岡へ移ります。岡城を総石垣の近世城郭へ改修し、その西側に竹田の城下町を整えました。
関ヶ原の戦いの後も秀成の領地は認められ、中川家は岡を治め続けます。山地の多い領国で城と町を結び、現在の竹田市街へつながる支配の拠点を築いたことが、秀成の治世の大きな成果でした。しかし、その体制を次代へ引き継ぐ途中で病に倒れます。
秀成の死後、子の久盛が家督を継ぎ、岡藩の2代藩主となりました。秀成が茶屋を建てようとしていた場所には、久盛が父を弔うため碧雲寺を建立したと伝わります。中川家はその後も13代にわたって岡を治めました。秀成の死は、築き始めた城下と領国経営が、子孫による長い岡藩統治へ受け継がれる節目でした。