中川秀成の人物画像

武将・大名

中川秀成

なかがわひでしげ

生年
1570年
没年
1612年9月9日(慶長17年8月14日)

中川家を継いだ若き当主

中川秀成は、豊後岡藩の基礎を築いた初代藩主です。元亀元年(1570)、摂津の武将・中川清秀の次男として生まれ、通称を小兵衛といいました。父の清秀は天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いで戦死し、兄の秀政が家督を継ぎます。しかし秀政も文禄元年(1592)、朝鮮出兵中に亡くなったため、秀成が中川家を継承して播磨三木城主となりました。

秀成は豊臣秀吉の命により、父を討った佐久間盛政の娘・虎姫を妻に迎えました。戦国期の遺恨を越えて両家を結ぶ婚姻であり、豊臣政権による大名統制の一面を示すものでもあります。文禄2年(1593)に豊後国岡への転封を命じられ、翌年に入部しました。

岡城と城下町竹田

岡へ移った秀成は、豊薩戦争や朝鮮出兵の負担で荒れていた領内の立て直しに取り組みました。志賀氏の居城だった岡城を総石垣の近世城郭へ大きく改修し、その西側に城下町竹田を建設します。東西・南北に通路を通し、本町、新町、府内町、田町、上町を整えた町割りは、その後の竹田の発展の土台となりました。

岡藩へ続く統治の基礎

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは一時、西軍との関係を疑われましたが、西軍方の臼杵城主・太田一吉を攻めたことで領地を認められました。中川家による岡藩統治は、その後13代、約280年にわたって続きます。

慶長17年(1612)、秀成は岡城本丸で急死しました。秀成が整えた岡城と城下町の骨格は今も竹田に残り、奥豊後の政治・経済・文化の中心地となる出発点を築いた人物として位置づけられています。

この人物に関する歴史

全1件

命日

中川秀成が亡くなる

1612年9月9日(慶長17年8月14日)、豊後岡の領主・中川秀成が43歳で亡くなりました。秀成は父・清秀と兄・秀政の死後に中川家を継ぎ、1594年に播磨三木から豊後岡へ移ります。岡城を総石垣の近世城郭へ改修し、その西側に竹田の城下町を整え…

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