1486年8月25日(文明18年7月26日)、太田道灌は相模国糟屋にあった主君・扇谷上杉定正の館へ招かれ、その場で殺害されました。道灌は扇谷上杉氏の家宰として軍事と政治を支え、江戸城や河越城の整備、長尾景春の乱の鎮圧などで大きな功績を挙げていました。
道灌が力と名声を高めたことは、主家にとって頼もしさと同時に警戒の理由にもなったと考えられています。ただし、殺害に至った事情は後世の記録を含めて語られており、定正の判断や周囲の働きかけをどこまで確定できるかには注意が必要です。殺害の舞台とされる館の正確な位置も、伊勢原市内でなお検討されています。
道灌を失った翌1487年、山内上杉氏と扇谷上杉氏の間で長享の乱が始まりました。道灌の死だけを争乱の原因とすることはできませんが、各地を転戦して扇谷上杉氏を支えてきた有力な指揮官が、対立の激化を前に失われたことは確かです。その最期は、関東の勢力関係が大きく揺れ始める節目となりました。