武将・大名
太田道灌
おおたどうかん
- 生年
- 1432年
- 没年
- 1486年8月25日(文明18年7月26日)
扇谷上杉氏を支えた家宰
太田道灌は、永享4年(1432)に生まれ、室町時代後期の関東で活動した武将です。諱は資長といい、道灌は出家後の名です。父の太田道真とともに扇谷上杉氏の家宰を務め、主家の軍事と領国支配を担いました。
当時の関東では、鎌倉公方から分かれた古河公方と、関東管領を担う上杉氏が争う享徳の乱が続いていました。上杉氏の内部にも山内家と扇谷家があり、その家宰を務める長尾氏や太田氏も大きな力を持ちます。道灌は複雑な同盟と対立のなかで、扇谷上杉氏の勢力を軍事面から支えました。
江戸城と関東の城郭網
道灌は康正2年(1456)に江戸城の築城へ着手し、翌年に完成させたとされます。当時の江戸城は、のちに徳川氏が築いた巨大城郭とは異なり、江戸湾と河川交通を押さえる中世の軍事拠点でした。道灌は河越城などの整備にも関わり、武蔵国の各拠点を結んで扇谷上杉氏の支配を支えました。
文明9年(1477)に山内上杉氏の有力家臣・長尾景春が反乱を起こすと、道灌は武蔵・相模などを転戦しました。各地の国衆を味方につけ、反乱側の城を攻略して鎮圧に大きく貢献します。道灌の軍事的成功は主家を救う一方、その名声と独自の人脈を主君が警戒する原因にもなったと考えられています。
糟屋館での最期と後世の記憶
文明18年(1486)、道灌は相模国糟屋にあった主君・上杉定正の館へ招かれ、そこで殺害されました。殺害の詳しい背景には諸説ありますが、扇谷上杉氏は有力な家宰を失い、のちに山内上杉氏との抗争を深めていきます。伊勢原市には道灌の墓や最期に関わる伝承地が残されています。
道灌は和歌にも通じた武将として知られ、蓑を借りようとして山吹の花を差し出された逸話は後世に広まりました。ただし、この物語は史実としてそのまま確認できるものではありません。江戸城を築いた武将、関東を転戦した軍略家、文化人という複数の記憶が重なり、現在の東京と神奈川の各地で顕彰されています。
別名
- 諱 太田資長
この人物に関する歴史
全1件
太田道灌が暗殺される
1486年8月25日(文明18年7月26日)、太田道灌は相模国糟屋にあった主君・扇谷上杉定正の館へ招かれ、その場で殺害されました。道灌は扇谷上杉氏の家宰として軍事と政治を支え、江戸城や河越城の整備、長尾景春の乱の鎮圧などで大きな功績を挙げて…
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