1592年8月25日(天正20年7月18日)、島津歳久は竜ヶ水で自害しました。歳久は島津貴久の三男で、兄の義久・義弘、弟の家久とともに島津氏の勢力拡大を支えた武将です。その最期は、豊臣政権への服属後に起きた梅北国兼の一揆と結びついています。
朝鮮出兵のため島津勢が肥前名護屋へ向かうなか、家臣の梅北国兼が肥後で一揆を起こしました。歳久はこの事件への関与を疑われ、豊臣秀吉の不興を買ったとされます。秀吉の命を受けた島津義久は歳久を追討せざるを得ず、歳久は竜ヶ水で追手を迎えて自害しました。ただし、歳久が一揆を直接指示したことを裏づける事情は明確ではありません。
この死は、九州統一を目指していた島津氏が豊臣政権の統制下へ入った現実を、一族内部に突きつける出来事でした。義久は秀吉の死後、竜ヶ水に心岳寺を建てて歳久の霊を弔っています。歳久の孫はのちに所領を与えられ、日置島津家へつながりました。一族は歳久の死後も、その系統と記憶を受け継いだのです。