1598年9月18日(慶長3年8月18日)、豊臣秀吉が伏見城で亡くなりました。秀吉は全国の大名を従えて天下統一を成し遂げましたが、晩年には幼い実子・秀頼へ政権を引き継ぐことが最大の課題となっていました。秀吉の死去時、秀頼はまだ6歳でした。
病状が悪化するなか、秀吉は徳川家康ら有力大名に秀頼への忠誠を誓わせ、五大老・五奉行を中心とする政権運営を整えようとしました。また、朝鮮へ出兵していた諸将には秀吉の死が伏せられ、死後に撤退と講和の手続きが進められます。長く続いた戦争は、秀吉の死を機に終結へ向かいました。
しかし、秀吉個人の権威に支えられた豊臣政権は、後継者を補佐する大名・奉行間の対立を抑えきれませんでした。翌年に前田利家が亡くなると徳川家康の影響力が強まり、1600年の関ヶ原の戦いへと政局が動きます。秀吉の死は、統一政権の完成者を失った日であると同時に、豊臣家の継承体制が試され始めた転換点でした。