1579年9月19日(天正7年8月29日)、徳川家康の正室・築山殿が浜松近郊で殺害されました。築山殿は今川氏の一門に属した関口氏純の娘とされ、家康が今川氏のもとにいた時期に結婚しました。二人の間には嫡男の松平信康と娘の亀姫が生まれています。
この年、築山殿と信康は武田氏への内通などを疑われ、母子の処分が決まりました。築山殿は岡崎から浜松へ移される途中、佐鳴湖畔で家康の家臣に殺害されたと伝わります。信康もほどなく幽閉先の二俣城で自害しました。家康は正室と成人した嫡男を相次いで失うことになります。
事件は長く、織田信長が処分を命じ、家康が従ったものとして語られてきました。しかし、信長の命令の内容、築山殿と武田氏の関係、家康と信康の対立などについては史料の解釈が分かれ、確定できない点が多く残ります。母子の死によって家康の後継者は改めて定める必要が生じ、のちに三男の秀忠が2代将軍となりました。