1626年9月26日(寛永3年8月6日)、脇坂安治が京都で亡くなりました。安治は近江国の出身で、羽柴秀吉に仕え、1583年の賤ヶ岳の戦いで武功を挙げました。福島正則や加藤清正らとともに「賤ヶ岳の七本槍」の一人に数えられ、豊臣政権のもとで大名へ成長します。
安治は淡路洲本を領して水軍を率い、九州平定や小田原攻め、文禄・慶長の役に参加しました。関ヶ原の戦いでは西軍として布陣しながら東軍側へ転じますが、事前に徳川方へ意思を伝えていたことが認められ、戦後も所領を保ちました。1609年には伊予大洲へ入り、城下と領国支配の整備を進めます。
1615年、安治は嫡子の安元へ家督を譲り、のちに京都で隠居生活を送りました。安元は大洲から信濃飯田へ移され、その後、脇坂家は播磨龍野藩主として続きます。安治の死は、秀吉の子飼いとして戦場を重ねた初代から、徳川幕府の大名として生きる次の世代へ家が引き継がれたことを示す節目でした。