武将・大名
脇坂安治
わきざかやすはる
- 生年
- 1554年
- 没年
- 1626年9月26日(寛永3年8月6日)
秀吉のもとで大名へ進む
脇坂安治は、天文23年(1554)に近江国で生まれ、羽柴秀吉のもとで頭角を現した武将です。天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いで武功を挙げ、福島正則や加藤清正らとともに「賤ヶ岳の七本槍」の一人に数えられました。その後は伊賀国の統治に関わり、国衆の抵抗を受けながら、材木を京都・大坂へ運び出す任務にもあたりました。合戦での働きだけでなく、秀吉政権が必要とする地域支配と物資調達を担って大名への道を進みます。
洲本城と豊臣水軍
天正13年(1585)、安治は淡路国の洲本城主となりました。大阪湾と紀伊水道を見渡す洲本は、畿内と四国・西国を結ぶ海上交通の要地です。安治は淡路水軍を掌握し、九州平定、小田原攻め、文禄・慶長の役に水軍の将として参加しました。朝鮮出兵では日本水軍の一翼を担いましたが、戦局のなかでは大きな損害を受けた海戦もあり、戦歴は勝利だけで語れるものではありません。
安治は洲本城を、大坂城の西方を守る総石垣の城へ改修しました。現存する石垣の多くは、安治が城主だった24年間に築かれたと考えられています。3万石の大名としては大規模な城でしたが、豊臣氏の蔵入地を管理した立場や、三熊山で石材を得やすかった条件が築城を支えました。洲本城は、安治が単なる部隊指揮官ではなく、海域と城下を管理する領主だったことを現在に伝えています。
関ヶ原から大洲へ
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、安治は当初西軍側に布陣しました。小早川秀秋が東軍へ転じると、朽木元綱らとともに大谷吉継の軍を攻撃し、戦後も家を存続させました。豊臣政権のもとで地位を築いた安治が、徳川方の勝利後も大名として残ったことは、政権交代期における脇坂家の大きな転機でした。
慶長14年(1609)、安治は洲本から伊予大洲へ移りました。大洲城は藤堂高虎と脇坂氏の時代に近世城郭として整備されたと考えられ、安治は瀬戸内海沿岸の別の要地を治めることになります。同年に子の安元へ家督を譲った後は京都で暮らし、寛永3年(1626)に亡くなりました。秀吉の部将、水軍を率いる洲本城主、徳川政権下の大名という複数の立場を渡り、脇坂家を近世へつないだ人物です。
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