1579年9月22日(天正7年9月2日)、荒木村重は織田信長軍に包囲されていた有岡城を出て、尼崎城へ移りました。村重が信長に背いてから籠城は約10か月に及び、城内は外部からの援軍を得られないまま厳しい状況に置かれていました。村重に同行したのは家臣5、6人だったと伝わります。
尼崎城には嫡男の村次がおり、海上交通の要所である大坂や毛利方とも連絡を取りやすい場所でした。村重が尼崎から雑賀衆へ送った書状には、一刻も早い援軍を求め、戦線を立て直そうとする意図が読み取れます。そのため、この移動は城を捨てた逃亡とだけ見るのではなく、包囲を外から破るための行動だった可能性も指摘されています。
しかし、村重が戻ることはありませんでした。城内から内通者が出ると織田軍が侵入し、侍町を焼き払った末、同年11月に有岡城は陥落します。救出されなかった村重の妻子や家臣らも処刑されました。有岡城を出たこの日は、戦況を挽回しようとした一手であると同時に、籠城側の結束が崩れていく転機となりました。