1600年10月19日(慶長5年9月13日)、豊後国の石垣原、現在の大分県別府市で石垣原の戦いが起きました。関ヶ原の戦いを目前に全国の大名が二つの陣営へ分かれるなか、豊後では旧領回復を目指す大友義統方と、徳川方に属する黒田孝高・松井康之方の軍勢が対峙しました。
大友義統は豊臣秀吉の朝鮮出兵中に改易され、豊後の支配を失っていました。1600年、大坂方からの支援を受けて豊後へ戻り、旧暦9月9日に別府の浜脇へ上陸します。大友方は松井康之の家臣が守る木付城を攻めましたが落とせず、立石の陣へ退きました。これに対し、黒田方の援軍と松井勢が木付城から別府へ進みます。
旧暦9月13日の戦闘は昼頃から夕方まで続きました。大友方は序盤こそ優勢に戦いましたが、兵力に勝る黒田・松井方の反撃を受け、吉弘統幸ら有力武将が討死します。大友方は敗れ、義統もその後降伏しました。降伏日は、別府市が旧暦9月15日とする一方、歴史地震研究会掲載論文の年表は翌14日としており、資料によって異なります。
この戦いによって大友氏の豊後復帰は実現せず、別府市は豊後大友氏約400年の歴史がこの地で幕を閉じたと説明しています。石垣原の戦いは、関ヶ原を中心とする全国規模の対立が九州でも戦われていたことを示す合戦です。