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武将・大名

大友義統

おおともよしむね

生年
1558年8月2日(永禄元年閏6月18日)
没年
1605年9月2日(慶長10年7月19日)

宗麟から家督を継いだ大友当主

大友義統は、永禄元年(1558)に大友宗麟の嫡男として生まれ、豊後国を中心に北部九州へ勢力を広げた大友氏の第22代当主となった戦国大名です。元亀年間から天正初年にかけて父から家督を譲られましたが、隠居した宗麟も政治・外交・宗教政策への関与を続けました。そのため大友氏の意思決定は父子の権限が重なる状態となり、家臣団の対立も抱えていました。

義統の当主時代、大友氏は筑前や肥前への影響力を持つ一方、南九州から勢力を伸ばす島津氏と対立します。天正6年(1578)、大友軍は伊東氏の旧領回復などを掲げて日向へ進みましたが、耳川の戦いで島津軍に大敗しました。多くの重臣を失った敗戦は、大友氏の領国支配を大きく揺るがします。

島津侵攻と豊臣政権

耳川敗戦後、筑前の国衆らが離反し、島津氏はしだいに豊後へ迫りました。宗麟と義統は羽柴秀吉に救援を求め、天正14年(1586)には島津軍が豊後へ侵攻します。大友氏は厳しい状況に置かれましたが、翌年の秀吉による九州平定後、義統は豊後一国の領有を認められ、豊臣政権下の大名として存続しました。

義統は秀吉から吉統の名を与えられ、文禄の役で朝鮮へ出陣します。しかし文禄2年(1593)、朝鮮での行動を問題視されて改易となり、大友氏は鎌倉時代以来の豊後支配を失いました。改易の理由は戦場離脱と説明されますが、処分に至る経緯や評価には慎重な検討が必要です。

石垣原での再起と配流

改易後の義統は複数の大名のもとへ預けられました。慶長5年(1600)、関ヶ原合戦に伴って西軍側から旧領回復を図り、豊後へ上陸します。旧臣を集めて挙兵しましたが、石垣原の戦いで黒田孝高の軍に敗れ、剃髪して降伏しました。

義統は徳川方に身柄を拘束され、常陸国へ流されます。再び大名へ戻ることなく、慶長15年(1610)に配流先で亡くなりました。広大な領国を受け継ぎながら耳川敗戦、豊臣政権への従属、改易、関ヶ原での再起を経験した生涯は、中世以来の名門大友氏が近世大名として存続できなかった過程を示しています。

別名

  • 別名 大友吉統

この人物に関する歴史

全2件

出来事

石垣原の戦いが起きる

1600年10月19日(慶長5年9月13日)、豊後国の石垣原、現在の大分県別府市で石垣原の戦いが起きました。関ヶ原の戦いを目前に全国の大名が二つの陣営へ分かれるなか、豊後では旧領回復を目指す大友義統方と、徳川方に属する黒田孝高・松井康之方の…

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命日

大友義統が亡くなる

1605年9月2日(慶長10年7月19日)、大友義統が配流先で亡くなりました。義統はキリシタン大名として知られる大友宗麟の嫡男で、豊後の大友氏を継いだ人物です。しかし1593年、文禄の役での行動を豊臣秀吉から問題視され、所領を没収されました…

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