1597年10月17日(慶長2年9月7日)、朝鮮の稷山付近で、日本軍と明軍が交戦しました。豊臣秀吉による2度目の朝鮮出兵である慶長の役では、日本軍が南原城を攻略して全州へ進み、さらに北上していました。明軍は漢城を守るため、稷山方面へ部隊を送りました。
稷山では、黒田長政の先鋒と明の騎兵部隊が接触し、援軍を加えながら戦闘が続きました。毛利秀元らの日本軍主力も近づきましたが、両軍は日暮れまでに戦場を離れたとされます。日本側と明・朝鮮側の記録は戦闘の経過や退いた順序を異なって伝えており、勝敗を一方の勝利として断定することはできません。
稷山周辺での交戦後、日本軍は漢城へ進まず、やがて南へ転じて沿岸部に城を築く段階へ移りました。ただし、撤退がこの一戦だけで決まったとみるのではなく、作戦目的や補給を含む慶長の役全体の推移から考える必要があります。稷山の戦いは、再侵攻で北上した日本軍と漢城防衛に動いた明軍が正面から衝突した局面でした。