武将・大名
黒田長政
くろだながまさ
- 生年
- 1568年
- 没年
- 1623年8月29日(元和9年8月4日)
官兵衛の嫡男・松寿丸
黒田長政は、永禄11年(1568)に黒田孝高(官兵衛・如水)の嫡男として生まれた武将です。幼名を松寿丸といい、父が織田信長・羽柴秀吉に従うと、10歳ほどで人質として秀吉の長浜城へ送られました。荒木村重の謀反に際して孝高が有岡城から戻らなかったため、信長から処刑を命じられたものの、竹中重治にかくまわれて命を救われたという経緯が伝わります。
成長後は父とともに秀吉へ仕え、中国攻め、四国平定、九州平定などに参加しました。天正17年(1589)に孝高から家督を譲られ、豊前中津の領主となります。文禄・慶長の役では朝鮮へ渡り、豊臣政権の軍団を率いる大名の一人となりました。
関ヶ原を動かした交渉
秀吉の死後、長政は徳川家康へ接近しました。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では東軍に属し、本戦で石田三成方と戦うだけでなく、開戦前から福島正則ら豊臣系大名を東軍へまとめ、毛利氏や小早川秀秋らへ働きかける交渉にも関与しました。父孝高が九州で軍事行動を展開する一方、長政は家康の主力軍と行動しています。
東軍勝利への貢献により、長政は筑前国のほぼ一国、約52万石を与えられました。豊前の一大名から九州有数の大大名へ進んだ転機です。ただし、関ヶ原の勝敗を一人の調略だけで説明することはできず、長政の役割は多くの大名間の交渉と本戦での軍事行動の双方にありました。
福岡城と二つの都市
筑前へ入った長政は当初名島城を用いましたが、城下を広げにくかったため福崎の地に新城を築きました。慶長6年(1601)から工事を進め、黒田氏ゆかりの備前国福岡にちなみ、新たな城と城下を「福岡」と名づけたとされます。福岡城は大規模な石垣と曲輪を備え、藩政の中心となりました。
長政は武家の城下町・福岡と、古くからの商業都市・博多を隣接させ、それぞれの機能を生かして藩の基盤を整えました。江戸幕府成立後は大坂の陣などで徳川方に従い、元和9年(1623)に京都で亡くなります。家督は忠之が継ぎ、長政が築いた福岡藩は黒田家のもとで幕末まで続きました。
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姫路城主・黒田官兵衛の嫡男として生まれた長政は、幼くして織田信長へ人質として差し出され、羽柴秀吉に預けられる。そこで軍師・竹中半兵衛の教えを受け、仲間たちとともに学問や武芸に励んだ。ある日、織田家の重臣・荒木村重が信長に反旗を翻す。官兵衛は荒木のもとに説得に向かうが、捕らわれてしまう。戻らない官兵衛を裏切ったと判断した信長は、長政の処刑を命じる。関ヶ原で徳川家康を勝利に導いた勇将・黒田長政の生涯!