出来事

泗川の戦いで島津軍が明・朝鮮連合軍を退ける

1598年10月30日(新暦)

慶長3年10月1日(旧暦)

島津義弘 の人物画像

1598年10月30日(慶長3年10月1日)、朝鮮半島南部の泗川で、島津義弘・忠恒らの軍勢が明・朝鮮連合軍の攻撃を退けました。豊臣秀吉による二度目の朝鮮出兵、慶長の役が終盤を迎えた時期の戦いです。

日本軍は朝鮮半島南岸に築いた倭城を拠点としており、島津軍は泗川の城を守っていました。明軍を中心とする連合軍は日本側の拠点を一斉に攻める作戦を進め、その一軍が泗川へ迫ります。島津軍は城へ兵力を集め、攻撃を受け止めました。

姶良市の解説では、連合軍が用意した火薬の爆発によって混乱が広がるなか、島津軍が城外へ打って出て相手を退けたとされます。ただし、双方の兵数や損害は、日本・明・朝鮮の史料や後世の記録で大きく異なります。島津側に伝わる大きな戦果の数字を、そのまま戦闘の実数とみなすことはできません。

同年8月に秀吉が亡くなり、日本軍は撤退へ向かっていました。泗川の戦いは、その撤退を前に各地の倭城をめぐって行われた激戦の一つです。島津軍は城を守った後に帰国し、義弘は翌々年の関ヶ原の戦いへ向かうことになります。

出典

姶良市「戦国武将島津義弘の生涯」、https://www.city.aira.lg.jp/hisho/closeup/yoshihirokou_close-up.html (閲覧日:2026-09-18) 鹿児島市『鹿児島市史 第九部 年表』、https://www.city.kagoshima.lg.jp/kikakuzaisei/kikaku/seisaku-s/shise/shokai/shishi/documents/201251016251.pdf (閲覧日:2026-09-18) Wikipedia contributors「泗川の戦い」、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%97%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 (西暦日付と研究文献の確認、閲覧日:2026-09-18) 戦国探訪録「島津義弘」、https://sengoku-tanbou.jp/people/ (既存人物ページとの書き分け確認、閲覧日:2026-09-18)