1615年9月1日(慶長20年7月9日)、江戸幕府は京都の豊国神社を破却するよう命じました。豊国神社は、豊臣秀吉の死後、その遺体を葬った阿弥陀ヶ峰の麓に造営され、秀吉を「豊国大明神」として祭る場所でした。盛大な豊国祭も行われ、豊臣家の権威を目に見える形で示していました。
同年の大坂夏の陣で豊臣秀頼が亡くなり、豊臣宗家が滅亡すると、徳川家康は豊国社の破却を決めます。社領は失われ、祭祀は途絶え、社殿や山上の廟所は次第に荒廃しました。ただし、命令の日にすべてが一度に取り壊されたのではなく、施設の処分は段階的に進んだと考える必要があります。
秀吉を神として祭る場を閉じることは、豊臣家の政治的な記憶を公的な祭祀から遠ざける措置でもありました。豊国神社が再建されるのは明治時代です。現在の社殿は旧方広寺大仏殿の跡地に建ち、秀吉を祭る場所が徳川政権によって閉ざされ、後世に復興された歴史を伝えています。