1614年8月31日(慶長19年7月26日)、徳川家康は、京都の方広寺大仏殿で予定されていた開眼供養と梵鐘供養の延期を命じました。大仏殿は豊臣秀頼が再建したもので、豊臣方は片桐且元を駿府へ派遣し、家康の了承を得ながら供養の準備を進めていました。
家康側が問題としたのは、梵鐘の銘文にある「国家安康」「君臣豊楽」などの語句です。「家康」の名を分けて徳川家を呪い、豊臣家の繁栄を願う文言だと解釈されました。ただし、銘文が当初から徳川家を呪う意図で作られたと確認できるわけではありません。鐘銘の解釈は、すでに緊張していた両家の政治問題へと広がっていきました。
豊臣方は且元を通じて釈明を試みましたが、交渉はまとまりませんでした。やがて且元は大坂城を退去し、徳川方は諸大名へ出陣を命じます。方広寺鐘銘事件は、それだけで戦争を引き起こした唯一の原因ではないものの、徳川と豊臣の対立が大坂冬の陣として表面化する大きな契機となりました。